| ■ ■ ■ 「余 白」 ■ ■ ■ |
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「 感謝 」
送信日:2007年12月19日
「 北国の春と南国の秋 」
私の書斎から東の方角に長い丘陵(きゅうりょう)が見える。緑の丘陵は右から左へ、南から北へなだらかな稜線をなしている。そして、その稜線は北側の海へと落ちていく。 その丘陵には、送電線の高い白い鉄塔が立っている。今のところはそれだけが唯一の人工物である。 北海道の旭川は今日は零下5度ということだが、十月中旬の沖縄は気温がまだ28度と夏である。日本列島はそれだけ長いということでもある。 しかし、その沖縄にもさすがにもう秋の気配はある。いや、気配だけではなく、目に見えて秋は来ている。朝の太陽が、丘陵の鉄塔のかなり右側から昇るようになった。夏は海岸線から昇る太陽がぐんぐん南によってきた。その太陽が、丘陵の南の端に達した時が冬である。もうすでに日の出も遅くなり、赤い太陽が丘に現れるのを私の方が待つ日がふえた。 春爛漫(はるらんまん)という言葉がある。多くの草花が長い厳しい冬から解放されて、春に芽吹き、花が咲き乱れるさまをいうのである。 わが家の庭には、秋の今、花が咲き乱れている。いずれも手のかからない、放っておいても咲く花ばかりである。蝶も一本の花の木に七、八匹も群れている。花の木と言ったが、そう、わが家の庭はほとんど草花らしきものはなくて、芝生の周辺にいろいろな木がやたらと植え込まれている。 白と黄のランタナの二つの群れ、オレンジ色のオオゴチョウ、紫色のデュランタ、五、六十個の大輪のピンクの花をつけたタチアオイ、紫の一重の大輪の花をいっぱいつけたアリアケカヅラ、黄色の牡丹、赤く燃えているブーゲンビリア、沖縄在来の小輪のピンクのバラ、朱を帯びたススキの穂。そして、なぜそこにあるのか数本のオリーブの木と数本のパパイヤの木、この二つはまだ花をつけていない。 たしかに、パパイヤを花壇に植えることには異論もあった。しかし、観葉植物と思えばその葉も結構美しい。なんと言っても、いつか実がつけば貧しいわが家にとっては暮らしの足しになる。 この季節、植物までが厳しい夏から解放され安堵しているのだとつくづく思う。これが、太陽の島沖縄の秋の季節である。北国に春爛漫があるように、南国には秋爛漫という言葉があってもいい。 秋と言えば旅であり、読書である。特にその旅先を舞台にした小説をリュックに押し込んで、旅の宿でゆっくり読むのはよい。しかし、考えてみると私は久しく旅をしていない。先立つ物のこともあるが、時間がなかなかつくれない。それでも暇だ、いつでも暇だと人には言うことにしている。この厳しい時代、忙しいことは有り難いことだからである。 でも、今こうして乱雑な庭を見ながら、旅を思う心のゆとりが取り戻せたのは、やはり秋風のおかげである。 北国の人が春を待つ思いに似て、南国の人は秋を待つのである、厳しい季節からの心身の解放を求めて。とは言っても、秋はやはり秋。そこはかとなき寂しさを憶え、人恋しく思えるのには北国も南国もかわりはない。
送信日:2007年11月29日
「 告 別 式 」
告別式は、別れを告げることなので、退職時などの送別会の意味もあるのだが、今は、故人との別れの儀式として伝わってくる。それだけに、書き手にとっても、読む方にとっても、少し重たいテーマである。 私は仕事柄ということもあって、少なくとも週に一度ぐらいの割で御焼香をさせていただいている。先週は一度だったが、今週は同じ日に二方の告別式があった。 焼香の列に並び遺影を拝見しながらいつも思う、穏やかな死だっただろうかと。こんな思いを持つようになったのは、父と母を亡くしてからのことである。それも最近のことではない。もうすぐ二十五年忌と十三年忌を迎える。父母の告別式のときは多くの方にお世話になった。今も心から感謝している。だから、告別式への参列は私にとってその時のお返しでもある。 「穏やかな死」、おそらくこれは故人に身近な人がもっとも気にしていることであろう。また私自身、どうしたらそうなれるかを、いつもではないがふと考える時がある。そんなことを思う年齢になったということかもしれない。いや、むしろどの年齢でも、人は、人生をそして死を考える時があってもいいはずである。が、今の人はそれを考えるには忙し過ぎるのだ。あるいは、私自身も含めて避けているふしもある。 穏やかな死は、どうやら第三の人生といわれる定年退職後の生き方と関係がありそうだ。定年退職のない職業なら、仕事から解放された後の人生ということになる。この第三の人生に充実があれば、安らかな眠りがあるはずである。ここでいう充実は、自分だけのためにどれほど時間を使うかである。作家の五木寛之をはじめ、最近この第三の人生を林住期(りんじゅうき)と呼んでいる。 「余命とは言わず、定年後のこれからの人生を余白の人生と呼ぶことにしたい」と高校の同期のO君から葉書をもらった。自分のために、自分が使いたいように使える人生、未知の可能性すら見つかるかもしれないこれからの人生を大切に生きてみようというのである。ここでいう第三の人生は多分にわがままな人生でもある。 私のエッセイ集「余白」を手にして書き送ってきてくれたものだが、私はその葉書をO君の作品の一つとして大事にとってある。 実はO君は書道の大家である。沖展の審査員である。その道にうとい私は知らなかったが、書道では余白ということがしきりに語られるものらしい。そして作品を生かす大事な存在だともいう。第三の人生もそんな大事な役目があると思う。 何か表現された紙面は、文字や絵で埋めつくされていない余白がある。また、生きている人の今の人生の満足度は、数字でいうと100%ではなく70%か60%ぐらいではないだろうか。それらは足りなさに見える、が、なお残る可能性とも言える。 学び鍛え備えるべき青春期、働くべき壮年期、そして全てのなすべき事から解放された人生。かつてしたくてやれなかったことを好きなだけやるのが退職後の第三の人生なのだろう。それは、全ての人に与えられた自由自在な空間である。大事にとっておいた余白である。 第三の人生のために青春期や壮年期はあるとも考えられる。人生は、この段階でどう生きるか、生きたかで、その充実感が決まるはずである。ここが勝負どころ、いやここではもう勝負もいらない。ひたすら、心の赴くままに生きることである。 O君は、きっと書道三昧に生きるのだろう。筆にまかせて、時に楽しみながら、時には芸術的作品をねらって。 私は桜の花が好きである。散りぎわが見事だからではない。また、沖縄の桜はめったに散りはしない。桜の木は年輪を重ねるに従って見事な花を咲かせるからである。100年の年輪を持った桜の木は見事である。人生のクライマックスもそうありたい。第三の人生は、決して人生のオマケではないと私も思うし、すくなくともそう思いたい。 わが家の庭にもかなり大きな桜の木が一本ある。高さは6、7メートルもあり、樹齢は50年ぐらいだろうと植木屋は言っているが、確かなことは解らない。知り合いの建物のリフォーム屋が、増築工事現場で処分するというのを引き取ったものである。移植してまだ2年だが、根づいている証拠に、一応毎年花はつけている。しかし、引っ越し疲れもあってのことだとは思うが、見事な花というには程遠い。むしろ、しょぼくれて咲いているという感じである。犬や猫などの動物はそうだと聞くが、どうやら庭の木も、その家の主に似るものらしい。 46歳の若さで琉球大学学長になられた金城秀三先生が先週(7月14日)お亡くなりになった。83歳だった。 私は偶然にも、まる一年間、1対1で教授から刑法を教わった。全くもってもったいない話である。教授の研究室のテーブルには、私の座る椅子に向けて、六法全書が準備されていた。「重たいだろうから、いくつもあるので」というお言葉に甘えて遠慮なく使わせていただいた。その本をめくりながら一年間、教授と二人だけの多くの時間を持った。大学院の一学生にも気遣って下さるやさしい先生だった。 その後、個人の確定申告の時はいつも先生ご自身で事務所へお見え下さったのだが、今年はお嬢さんがかわりに見えていた。ご病気のことは聞いていなかった。 「定年後は読みたい本が好きなだけ読める。自分の時間が好きなだけもらえる」といつか先生はおっしゃっていた。若い頃から素晴らしい花を咲かせた先生だが、定年後はなお充実した日々を送られておられるのだなと思った。。 先生のお読みになった本の数にはとうてい及ばないだろうが、実に大勢の告別式の参列者だった。7列縦隊の焼香者は、3時の時間切れになってもまだ続いていた。
送信日:2007年8月15日
暑中見舞
暑中お見舞い申し上げます 沖縄の夏 年々暑くなっていく気がします でも この暑さの魅力に誘われてか
送信日:2007年7月28日
「 赤い屋根の風物詩 」
赤い屋根と聞くだけで、何か夢を感じる。お伽(とぎ)の国への連想もある。 何度か一緒に歌わせてもらったこともあって、私が親しくしている女性合唱団の持ち歌に、「赤い屋根の家」という歌ある。彼女たちは手話で表現しながら美しいハーモニーでこの歌を歌う。きっと、お伽の国を連想しながら歌っているのだと思う。「セェール」というアマチュアの合唱団で、ハンガリー語の「風」を意味するらしい。 赤い屋根というと沖縄では赤瓦の屋根である。珊瑚礁(さんごしょう)からなる沖縄の土は鉄分が含まれているので、焼くと赤くなるのである。ちなみに銅は焼くと青くなる。 私の幼い頃は、赤瓦の家はお金持ちの象徴だった。「あの人の家はカーラヤー(瓦屋根の家)だよ」と言って、大人達もカーラヤーの人には一目も二目も置いたものである。 それだけ瓦は高価なものであり、またそれを載せるには強固な構造の柱やらを使う必要があるので、家全体としても高価となった。それなりの金持ちの家しか造れなかったのである。ちなみにわが家は、茅葺(かやぶ)きの屋根だった。カーラヤーに対してカヤブチヤーと言った。カヤブチヤーの人はごく普通の人だった。 現在、沖縄で瓦屋根の代表と言えば、もちろん首里城正殿(しゅりじょうせいでん)である。その屋根瓦の数は5万5千枚だという。 これだけの瓦の量を作るには1億円のあらたな設備投資が必要だった。また、首里城が小高い丘の上にあることから、台風時の風あたりが強く、高い強度の瓦が求められ、赤瓦作りが首里城復元の最後の難問だったという。 実は私はこれらのことを知らなかった。首里城には何度も足を運び、赤い屋根の広さに圧倒される思いで見上げているのだが、赤瓦作りの大変さには思い及ばなかった。 ふとしたことから、中学三年生の国語の本を手にすることがあってそのことを目にした。その教科書(光村図書)では、「炎を見ろ−赤き城の伝説」と題して首里城復元と瓦作りの大変さについて丁寧に十頁を使って詳述(しょうじゅつ)している。 奥原崇典(おくはらそうてん)と父親の崇実(そうじつ)の瓦職人としての厳しいながら愛情溢れる親子関係も感動的に書かれている。 これから梅雨になると、首里城一帯は深い霧につつまれる。赤瓦の屋根が、幻想的に空中に浮かび上がることになる。沖縄の風物詩として多くの旅人にも感動を与えることになる。これから年月を重ねるにつれて赤い屋根の色調が落ち着き、一層人の心をとらえることになるだろう。 崇典は、一度に2千枚も焼くというかつて例を見ない大規模な製造のために、またこれまでの九百度前後という常識をこえて千七十度という高熱に挑戦したために、何度も失敗をして「窯(かま)を開けては、地獄を見た気がした」という。そのために六万枚の失敗作品を出してしまった。そして、筆者の判田薫(はんだかおる)の記述によれば、崇典は莫大な借金を抱えてしまったという。 誰も引き受け手のなかった壮大な赤い屋根造りの挑戦者のその後のことが、やはり気になる。 梅雨の前触れであろうか、今日は終日雨が降り続いている。首里城も雨の中にあるに違いない。
送信日:2007年7月09日
『 一期一会(いちごいちえ) 』
わが事務所では、初めてお会いした人には、一期一会と書かれた葉書をその日のうちにお送りする。今日の出会いを感謝してのお礼の便りである。遠方の客のときは、葉書の方がその人より先に住宅に着いたこともある。 縁を大事にする人達の中には、人の出会いは偶然のように見えるが、実はそうではなく、すでに先世から会うべく縁ができているのだと説く人もいる。いわゆる良き因縁(いんねん)、善縁が結ばれていたのだという。この結縁をありがたく大切にしなくてはいけないというのである。 一期一会もまた同じ心であろう。今日、この限られた畳の上で茶を共にする(同畳同座)のは一生一度のありがたいご縁とするのだろう。私は茶の道は知らないが、たまに茶席に参加して温かい茶をいただくのは好きである。 一期一会という言葉は、茶道で大事に使われている。 私の部屋の本棚の上に30センチ四方くらいの黒塗りのりっぱな小楯(こたて)がある。それには「うやまい合い ささえ合って」 と書いてある。 多分その後に続く言葉は「人は生きなさい」ではないだろう
送信日:2007年6月18日
『 人生の苦難は心を耕す糧(かて)である 』
私は毎日多くの方とお会いし、またいろんなことをご一緒して考えるのが仕事である。 K社長が訪ねてきた。K社長は一年前に会社を明け渡した。私が掛け合ってK社長の一年分の報酬を引き続き払ってもらった。引継の条件にしたのである。相手は本土の上場会社である。その一年が終わったので挨拶に見えたのである。だからKさんは正確にはもう社長ではない。だが長年の呼びつけた名称なのでやはりK社長である。 「K社長、悠々自適の生活はなれましたか」 「この6月で丁度一年ですが、生活のリズムがつかめません。朝食を10時、11時に食べ、昼食が2時、3時だったりします」 「何をして時間を過ごされていますか」 「ぼんやりと過ごしていますが、なぜか毎日がむなしく淋しい気がします。今日が何日か何曜日かも知らずに過ごしています」 確かに仕事は辛いこともあります。いや、辛いことだけですという人もいるでしょう。それも解ります。でも仕事は失ってみると自分の生活の中心だったと気がつくのかもしれません。 スポーツマンのM君(女性)が退職していく。病気になってからどうしても気力が戻ってこないという。気力の回復を2年もまったが、どうしてもこれから先の回復の目処を立てきれないのだという。健康には人一倍自信があっただけに、それを失ったショックが大きかったのである。まさか普通の人にもついていけない今の自分の体力が情けなく悔しいのである。 沖縄の伝統工芸に関わるYさんはご主人との離婚の書類に判子を押したという。そこまでくるには多くのご苦労があったのだろう。 人は外から見ると苦労もなく平凡に生きているように見える。だが、多くの人が何か重荷を負って生きている場合が多く、むしろそれが普通なのかもしれない。人には必ず影がある。いや、少なくとも時には影がある。 誰も好きこのんで苦難を求める人はいない。だが、苦難が人の人生によくあることだとすれば、それを咀嚼(そしゃく)して、一回り大きく味わいのある人になってほしいと思う。またそう願う。 自分自身のことになると、苦難を有り難いなどと思う心の余裕は誰もない。が、他のみんなもそう心掛けて頑張っていることは確かである。
送信日:2007年6月04日
『 ニューカレドニア 』
ニューカレドニア、多分この島の名前はたいていの人が聞いたことがあるだろう。だが、どこにあるかと問われると知る人はそう多くはいないだろう。まして、100年前、600人もの沖縄の人が移民して行ったことを知っている人は少ないはずである。1905年のことである。
沖縄は今もそう豊かな島ではないかもしれないが、1900年前後、時代は極端に貧しかった。食糧が欠乏し、いわゆるソテツ地獄もあった。危険な毒素があることを知りながらも、かなりの家庭でソテツを食べるしかなかったのである。死者も出た。 その頃、ニューカレドニアのニッケル採掘工場で働き口があった。結構いい給料が貰えたらしい。その額を知る資料はないが、玉城村(現在の南城市)にはフランスヤー(家)というそれらしい構えの家があるとも聞く。ニューカレドニアの移民帰りの家族らしい。 ニューカレドニアは今もフランス領である。オーストラリアの近く、浮かぶ日本の四国ぐらいの大きさで、島の中央を背骨みたいに山が連なっているのは、沖縄に似ているようだ。 日本人のある作家が、その島のことを「天国に一番近い島」と紹介してからかなり知られるようになった。 東京から約9時間の飛行距離に位置するかなり遠い島、今日(5月21日)は南島文化研究所主催の研究者の方々の話で、身近にその島のことを再び聞いた。私は全くの門外漢だが、円形テーブルの椅子にありつけた。墓標には日本人死者の名前があって、その中には比嘉や謝花、金城だとか明らかに沖縄出身者と思われる名前もあるようだ。だが、県人会やあるいは出身者の子孫が集落をなしているものではないらしい。とするとすでに5世、6世の時代だから、入植時の沖縄移民者の思いを知ることはむつかしかろう。 ニューカレドニアへ行ってそのことを聞いてみたいと思っていた私のかすかな希望はおぼつかなくなった。 送信日:2007年5月21日
『アメラジアンスクール』
アメラジアンスクールに、わずかばかりの寄付をさせていただいた話をしたが、講演会にはそのスクールの中学生12名を招待させていただいた。 講演終了後、五日市剛先生への花束贈呈は3人の中学生にお願いした。一人が花束を、二人がアメラジアンスクールのことを書いた本を各々講師に壇上で手渡した。有益な話と中学生達の素敵さが加わって大きな大きな拍手が沸き起こった。 アメラジアン(Amerasian)とは、アメリカ人と沖縄の女性(アジア人)との間に生まれた子ども達のことである。新しくつくられた言葉、造語(ぞうご)である。 アメラジアンスクールに籍をおく子ども達は父親がないか、もしくは父親が退役軍人である。経済的には恵まれない家庭が多く、その子ども達の授業料で運営するアメラジアンスクールの運営は厳しい。より多くのささやかな協力も助かるという現状である。 実は私も、今回野入直美代表代行(琉大助教授)と会うまでは、アメラジアンという言葉も知らなかった。まして、アメラジアンスクールの実状は知らなかった。 二国籍を持つアメラジアンは、英語と日本語を駆使(くし)して世界にはばたく可能性を持って生まれているはずだが、バイリンガル(2カ国語を使いこなす人)とはほど遠く、ちゃんとした日本語学校にも米国語学校にも行けず、したがってどの国の言葉も充分には使えない子が多い。
送信日:2007年5月07日
『大規模な観客動員の智慧と多くの支援』
約1,700名のお客様が劇場棟を出ていかれたときは、コンベンションセンターの中庭が埋め尽くされ、まさに大きな群集の移動という感じでした。 これだけ多くの方が昼の時間をさいてお見えになったわけです。心から感謝致します。 実行委員長のカワバタハウス・川畑社長と、副委員長の普久原楽器・普久原店長の、新聞社の無料行事案内欄を利用するなど、広告活動が効果的でした。また、チケット販売を沖縄ブックボックス、田園書房、丸三ランドリー(今は商号変更で丸三)に依頼したことは実行委員の見事な着眼だった。講演会のお客様は、女性の方が多いのでご婦人が立ち寄り易い身近な場所として最適だった。 約90店の丸三には多くのご負担をかけた気がしたが、逆に新顔のご婦人が足を運んでもらったこと、また文化的な活動への支援をできたことで宣伝になったと、さわやかな男、荷川取社長が礼をくれたことに感謝している。「お互いにサンキュー」これがビジネスの基本です。(アメラジアンスクールは次回)
送信日:2007年5月01日
『 ツキを呼ぶ魔法の言葉 』
4月17日、沖縄コンベンションセンター劇場棟で講演会を行った。大盛況だった。3階席まで満席で、理事長席として1階一列目に私のために準備してあるとのことだったが、お客様にお譲りして、3階で山田理事と立ち見席となった。 1,683名のご来場だった。南は宮古から北は東村まで遠方からも見えていただいた。 講師は五日市 剛(つよし)先生である。その魔法の言葉とは、われわれの日常語である。「ありがとう」「感謝します」という言葉である。 われわれの気持ちや心はそう簡単に変えることは出来ないが、言葉はいい言葉に変えることができる。言葉を変えることで、気持ちや心を変えようというのである。腹の立つ場面でも「ちくしょう」とか「きれる」とか怒りの言葉を使わず「ありがとう」「感謝します」という言葉を使うと自分の心、そして相手の心も変えられるのではないかということである。実践をお勧めする。 わずかだが、入場者の方々のお許しを得て、アメラジアンスクールの子供達に寄付をさせていただいた。アメラジアンスクールとは何か、これだけのお客様にご参加いただくには、どんなことを心掛けたか、実行委員長のカワバタハウス・川畑社長と、副委員長の普久原楽器・普久原店長の采配(さいはい)ぶりについては、また今度(5月1日)。 税理士 城間 源哲
送信日:2007年4月25日
『 戦い終わって 』
宜野湾市の市長選挙が終わった。現職の伊波さんの勝利に終わった。外間さんは大山のご出身で、市のOBだから知名度もそう負けていなかったはずだが、伊波さんの実績が評価されたことになるのだろう。
外間さんも県議を伴って、当城間税理士事務所に挨拶に見えていたので、お二方(ふたかた)とも当選してほしかったが、そうはいかない。それが選挙であり、明と暗がはっきり出てくるのが選挙である。外間さんにはきっと政治家への別の道が開けるだろう。 伊波市長には、私が理事長を務める沖縄経友会で講話もしていただいた。西海岸開発についてである。 その沖縄経友会が4月17日に、沖縄コンベンションセンター劇場棟の3階席まで満席の講演会を開催した。どうして集客したかも含めてその事は明日(4月25日)に書き込もう。 最後に、私はかつて誰のいかなる選挙事務所も訪ねたことがない。私にとって選挙とは、一票を大事に投票することである。 税理士 城間 源哲
送信日:2007年4月24日
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| 城間源哲税理士事務所 |
さて、このブログの体裁を少し変えます。これからは私の小説を連載をします。いか程のものか、それはあなたの判断にゆだねます。最後までお読みになるか、いや、お読みいただける程の作品か、いや、作品と言える代物か、それらの全ては読む方の自由な判断にゆだねます。
平成20年(西暦2008)
平成20年の行動指針は『 情熱と行動のある自分づくり 』とします。
若者よ起て、今、時代は厳しい。この時代は若き君の情熱が、若き君の行動が必要なのだ。
若き心を持つ者、燃える情熱を持つ者、烈しい行動をよしとする者、今はそのような人材が求められる。
革命児が必要な時代、こんな厳しい時代をよしとするわれら仲間、この仲間で職場を創っていこう。より活力ある職場を!
今年のキャッチフレーズは
『I Will be the Fire Man 』 とします。
限られた人生30,000日の大切な今日一日、
平成20年○月○日、明るく健やかに過ごして下さい。
s-gzei@kaikou.net.