
皆様に何かヒントをつかんで経営に活かしていただきたく、沖縄にてご活躍している企業をご紹介します。第2回は日本料理古都代表者仲宗根正敏様にお話をお聞き致しました。
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業 種:飲食業(日本料理)
設 立:昭和55年10月
住 所:南風原町山川304-1
TEL:098-889-0503
FAX:098-888-1894
代表者名:仲宗根 正敏(52歳)
趣 味:人とお話し・陶芸
家 族:男2人・女1人
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【対談者】
城間源哲税理士事務所
所長 城 間
源 哲 |
【城 間】 今日は、仲宗根正敏社長の料理人としての誕生の頃からの話を伺いましょう。15.16才の頃から料理人の道を志したとお聞きしていますが、東京へ行くいきさつからお聞かせ下さい。
【仲宗根】 17才の時ですが、日本料理研究会という組織がありまして、その紹介で東京の日本料理店に働くようになりました。
【城 間】 日本料理研究会は全国組織になっているはずですが、その組織とはどのように関わりが持てたのですか。
【仲宗根】 琉銀本店前にある沖縄植物園の大城社長のご紹介です。
【城 間】 そうですか、ここで大城社長の話があるとは思いがけない事です。私は沖縄植物園さんの顧問ですが、これは初耳です。大城社長は料理人ではないのですが・・。
【仲宗根】 料理人ではないのですが、沖縄の料理人を育てた人ですね。那覇市西町の割烹魚安さんとか、あの人が立ち上げた店です。あの人は研究会のどんな偉い人でもみんな同じように話をする人でした。
【城 間】 そのようなご縁があって東京に行くことになったのですね。
【仲宗根】 東京に行きまして、そこからスタートですね。当時は、行けと言われればアメリカでもどこでも行きたかったですね。
【城 間】 ちょうど少年の志の高い頃ですね。まさに青雲の志をお持ちの頃ですね。その少年の頃、料理の道という進路を決めたのは誰ですか。
【仲宗根】 自分ですよ。
【城 間】 その少年の頃選んだ選択肢が今に繋いでいるわけですね。
【仲宗根】 ただ私の場合、芸術とか手に関する事は何でもいいんですよ。普段家庭でテレビとかを見て小学、中学の時とか自分で作って食べていたんですよ。そういうのがたまたまつながりで、その道に流れていったんだなあという気がしますね。
【城 間】 ご本人自身も自分の手が器用だと子どもの頃から思っていたんでしょうね。
【仲宗根】 はい、芸術方面で何かする仕事とか、絵を描くとか、親がどうこう言わなければそういう道をやっていたかもしれませんね。
【城 間】 そこで仲宗根少年の東京での修行が始まりました。いかがでしたか、なれない土地での毎日は。
【仲宗根】 17才から本格的に東京に行って、とにかく人よりも早くという感じで、いつもそんな気持ちでやっていました。当時は沖縄で方言ばかり使っていたし、訛りもあり、親もそうでしたから、急に本土に行くと、社会的にも人間的にも周りがちょっと違いますから、そういった意味で慣れるまで時間がかかりました。自分で言いたい言葉が思うように言えないというか、言葉がすぐに出ないというか、そういう状態が慣れてきて、なんでも興味がありましたね。なんでもぶつかりましたね。いつも首から手帳をぶらさげて、懐に辞典をさして、人の話でもなんでも興味があったりして、仕事の事に関してわからない事があると、器のこと、有田焼きのなにをだせとか、美濃焼をだせとかいわれたら、ウン?「有田ってなんですか、なんで有田って言うんですか。」とか、1から10までわからない事ばかりですから、こと細かに聞いていましたね。料理用語でもわからないことは、日本文化的ものや、風習とか地方からきたりするものが多いものですから、それを聞くことで、地名を覚えたりとか、だから聞くこと言われることは何でも書き込んでいましたね。そうやってこれがだんだんわかってくると、料理の難しい質問ができるようになり、親父(店の主人)は一生懸命調べて教えてくれましたね。ですから、仕事に関しては前向きに、がむしゃらでしたね。それとともに技術面も、今の時代と違うのは、昔の人は丁寧に教えてくれませんから、鍋の底に汁物が残っていたら、隠れてなめたりして、調味料の加減を覚えていましたね。そういう状況でやっていた事を思い出します。
【城 間】 いい意味であの頃は技術は盗むものだったということですね。
【仲宗根】 はい、よく言われましたね。
【城 間】 料理の世界、絵の世界、いろんなところで盗むという言葉が非常にいい意味で、使われました。先輩達のものを盗みなさいと、それ以外に方法はなかった、先輩達もまたそうして育ってきましたからね。
【仲宗根】 今は完成された恵まれた時代ですから、教えなかった、手にとって教えなかった、そういう話になりますから、今の世代の子ども達に教えるというのは、我々の時代の考えを捨てるしかありません。前は親父に合わせるとか、環境に合わせるというのが基本でしたけど、自分からぶつかって行くというのが、今はなくなりました。むしろ顔色をうかがいながら、教えていかないと、という感じです。別に合わす必要はないんですが、時代の先をみたらこれでいいのかなと考えまして、基本は基本で、大事に守るべきものは道の通りしっかりずれないで進むことを教えようと考えています。どんな事があっても、たとえ家族であろうがなんであろうが、日本料理は日本文化であり、最終的には心の古里であり、癒(いや)しでもありますから、崩すわけにいかないのです。
【城 間】 料理の道は変わらないんですが、それに関わる若者の気持ちは随分変わったということですね。
【仲宗根】 その通りですが、それでも周りが変わるから自分たちは日本料理への道を無くすというわけにはいかないのです。

【城 間】 一つにはハングリーさが、あの頃と違いますからね。社長の青春の頃は、この道といえば、この道一筋でいこうということですが、今はいくつもの選択肢の中からどっち行こうかなと、いつも迷いながらの青春時代かもしれませんね。むしろ何を捨てるかを考えなくてはいけない時代です。
【仲宗根】 確かに今は選ぶ道が多すぎるという時代ですね。
【城 間】 料理人 仲宗根さんからみた日本料理の魅力はなんですか。
【仲宗根】 日本料理の魅力というのは、味と風景なんですよ。味というのは日本は湿地帯ですから、西洋の乾燥地帯と違って、味噌・醤油が自然と生まれやすく、育ちやすい。それが人の体に受けられやすいということで、日本料理は味噌・醤油を基本とした気候的なものから生まれた文化なんですよ。風景というのは、いろんな四季の風景、日本の家造り庭造りの中で、それにマッチした料理をするという事が一番理想なんですよ。一流処はそれを最終的に積み上げ、それを作り上げて、その風景の中に料理があったんですよ。
【城 間】 日本の風景とその風景の中の建物、そしてその建物にマッチングした料理がある、それが日本料理ということですね。
【仲宗根】 はい、庭造りも、それが日本料理の一つなんですよ。本土では通常どこでも造れるんですが、沖縄でこれをやるといったら、億単位のお金が必要になるんです。お金持ちがいい家とか、いい店は作れるかもしれません。しかし、造ったとしてもそれにふさわしい人材が要求されるんですよ。人材と文化的重々しさというのは、長い階段を一歩一歩、歩いていって、積み上げてつくっていくものですから一朝一夕に完成されていくものではありません。
【城 間】 日本料理はそれらしい建物という入れ物を造ったからといって、相応(ふさわ)しい中身はすぐには創れるものではないということですね。隠れた奥の部分があるということですね。
【仲宗根】 隠れた部分の力というものが支えているんですよ。それが、世界の作られていく料理文化なんですよ。ですから、日本料理の食器、掛軸にしても、あらゆる日本文化がそこに満載しているんです。
【城 間】 召し上がるお客さんが、その隠れた部分を楽しんでいただける料理を作る、作る方も楽しくなりますね。
【仲宗根】 日本料理は、水と鮮度を大事にする世界ですから、そういった味噌、醤油、鮮度というもの、四季感というものを守っていれば、全ての食材がそこにマッチするのです。

【城 間】 日本料理は、日本の土地で独自性をもって育ってきたということですか。
【仲宗根】 そうですね。材料はもともと野菜にしても、肉にしても今みたいに食べることはできませんでした。肉は仏教の影響で食べてはいけなかったのが、現在のように食べられるようになったのは、明治維新以降学生鍋がはやるんですが、学生さんがヨーロッパに憧れ、ヨーロッパの人は肉を食べている、「じゃあ食べてみよう」と作られたのがすき焼きなんですよ。だから一般の人は肉というものは普段食べてないですから、すき焼き屋さんの前を通る時は、鼻をつまんで走って通り過ぎるくらい慣れていなかったんですよ。また昔、しし肉といって、お坊さんや一般の人が食べるときは隠れて食べるんですよ。また、一般の人が堂々と食べるときは薬食(くすりぐ)いとして食べるんですよ。滋養(じよう)としてですね。明治になって一般化されるんですが、食文化というのはおそるおそる、いろんな物を受けながら自然に浸透して作られていくんです。
【城 間】 そのような食生活の変化の中で、日本料理は生き続けるわけですね。
【仲宗根】 掛軸一つをとっても、見てそれを解読してそれを楽しめる人、テーブル一つにしても、漆器とか器が出たら年代とか当てたりそれを見て喜べる人ですね。
【城 間】 そうすると日本料理は、茶席に通じることになりますね。
【仲宗根】 日本料理を含めて日本は、文化そのもの全てがお茶の世界に入っているのです。
【城 間】 すると日本料理と茶は生い立ちでもずいぶんと関わっているわけですね。
【仲宗根】 お茶というのは大変奥が深くて、お茶に通じれば掛軸、家造り、庭造り、各道具、小物、布にしてもすべての日本文化のありとあらあゆるものがそこには満載しているのです。だから、日本料理はどのようにして生まれたかといえば、お茶に、もともと合う会席が使われていたのです。だけど伊井大老が暗殺され、その人がお茶というのは懐(ふところ)の石を使う、ということを書いたのが残っているのです。それ以降はその懐石になっていますね。
【城 間】 そのように奥深い日本料理の店は、代を重ねて、何代にも分けて築くものだと聞きますが。
【仲宗根】 最初はのれんを作ります。良い店というのはお金をかければいくらでもできますが、格式はお金では作り上げることはできないので時間がかかります。薄っぺらの紙を積み上げるようなもので、年数が立てば自然と厚みになっていくものです。それを初代が作り、2代目がのれんをつかって、のれんに応じたお客様がいらっしゃるので、それから拡張することを考え、そして代々で道筋を固定していくのです。
【城 間】 茶道の世界では、掛軸を愛(め)でる、あるいは器を語る。そして時代を語り作者を語り合うようですが、日本料理にとっても食器が大事なものなんですね。
【仲宗根】 料理を生かすも器しだいだと言うほど大事なものです。料理に合った器を常に考えています。
【城 間】 土の焼物を始めたと聞いていますが。
【仲宗根】 焼釜を自分で作りました。
【城 間】 ほう!ご自分で。
【仲宗根】 たまたま釜を買おうと思ったら手頃の物がなくて、そのお金で造っちゃおと造ったんです。
【城 間】 すると、今は焼物づくりも忙しいですね。
【仲宗根】 今は焼き物が基本ですね。これはお店で使うものですから、また本土の料理屋に送ったりして、商売ではなく、この人達がこれをどう楽しむかという、それが作る楽しみですね。
【城 間】 食器も既製の物ではちょっと飽き足りないので、自分なりのものを作ってみようと。
【仲宗根】 その代わり人が作れない物、時間をかけて、そういう物を今作っています。
【城 間】 どうですか、店でご自分がお作りになった食器はもう随分使われていますか。
【仲宗根】 まだまだですよ。時間かかるもんですから、1年はかかるぐらいなんです。仕事をやりながらですから。
【城 間】 最後に、古都の味について思うところを語って下さい。

【仲宗根】 味にはですね、水のうまさを基準にして1.山水 2.秋の雨水 3.川の水・井戸の水、水にもうまさがあるんですよ、同じ水でも。要するに山水というのは岩にねられて、また冷え加減もちょうどよい。秋の雨水というのは、この地球上の生き物・食べ物は温度なんですよ。秋というのはひんやりして空が澄み切って空気も良いんです。そのゴミのない澄み切った温度の中での雨水は、ほどよくおいしいんですよ。全部がそうではないが、もちろん味の濃いもの、鰻の蒲焼きなど食べても美味しいものは美味しい。お吸い物とか、一品に値する澄み切ったものに関しては水に近いんです。
<懐石という味は、濃い味から、真中の味、薄い味まで全部はいったのが懐石です。一品だけを食べさせるわけではない。また、お酒を基準にして、たくさん飲んで戴くための味というのは、塩辛いもの、つまみになるもの、昔で言えば珍味類を重要視していました。お酒が好きな人にはお酒が進むような料理を、基本的なことを心がけております。
【城 間】 古都の料理の味は水を基本に作られるのですね。古都の料理が多くの固定客から繰り返し愛され続けている理由が解りました。今日はありがとうございました。